昭和52年09月23日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
一段一段信心を進めて、愈々自分自身が助かり、一家が立ち行き自分の周辺の人達が同じく助かって行く手立てを、合楽理念は説いてあります。昨日まあ合楽理念の骨子とでも申しますか。ちょっとここに控えましたから読んで見ましょう。合楽理念の実行的原理は天を恐れ、天を楽しむ心と行いにより表現される。合楽理念の実行的原理は、自我いわゆる我情我欲の没却ですね。託するによりて実現せらるる。
合楽理念の実行的原理は、人間氏子の神任せ絶対精神、尚その行動により実現される。合楽理念は自ら天地の心を体得し、自ら神を目指し人間幸福の条件の全てを受けようとする理念なり。合楽理念は時代により変わり、所によって変わるものではない。究極は世界総氏子の心開発にあり。合楽理念はその実行をもって命とする、所謂生命とすると言うのであります。これは合楽理念をマスターして行く一つの手がかりです。
愈々合楽理念をマスターする、そしてそれを行の上に現して行くという。そこから何が生まれて来るかと言うと、いよいよ神心が強うなって来る。ね。人身開発という事。これはどうでもお互いのその心が、先ず開発される。そして後愈々幸せになって行く人のために、その開発の言うならば手段と言うか、手がかりと言った様なものが、自分自身が先ずは頂かなければならない。最後に申しておりますように。
合楽理念はその実行を持って、生命とするのだと。ですからいかになら合楽理念を一通りマスターした、覚えましたというだけではいけない。しかもそれが本気でここに、一両日づつ頂いておりますように。おかげを頂くというのじゃなくて、信心を頂くと言う事。信心を頂くと言う事が、どのくらい素晴らしい価値あるものかと。またおかげだけに終始する事が、どのくらい馬鹿らしいものかと言う事が、まあ昨日から一昨日にかけて、説かれております。
はあ合楽に参ればおかげを受ける、おかげを受けると。そのおかげはね大した事はないです。先ずは私共の心が開発されて。そこから愈々信心の芽が出る信心が育って行く。所謂そこから信心が一段一段、進んで行くと言う事にならなければならない。お釈迦様は慈悲の心を持って人の心を開発された。キリスト様は、愛の心を持って愈々、その歓化力の偉大なことは、まあ皆さんが御承知の通り。先ずは釈迦キリストその人の心の中に、素晴らしい開発があったのです。
教祖金光大神は人が助かる事さえ出けれればという、いわゆる神心です。その神心が開発に従って、愈々募って参ります。愈々止むに止まれないものになって参ります。私は昨日、今日の霊祭( )昨夜ちょうど十二時過ぎから今日の霊祭の事を神様にお願いをさせてもらい、また、御霊様達が今日のお祭りに会われるのに、会われ良いように、もうそれこそ数限りのない沢山な御霊達。
勿論合楽教会に帰依をして、教徒としておかげを受けておられる御霊は勿論の事。合楽教会に御縁を頂いた信者信奉者に関わる、関係を持つ所の限りない御霊達が、今日は御霊のお祭りを頂く事です。御霊ながら様々な修行を致しております。その修行の結果が今日、言うならば御霊の位も一段と進みという、その儀式が今日あるのです。だから今日お祭りというのも大変だから、私は大事だというこの、御霊達の精進しておられるその精進の様子が、今日ね一段進まれた人もありゃ二段進まれた人もおるでしょう。
そういう言うならば儀式なんです。そういうお願いをさせて頂いておりましたら、御心眼にね、あれはまあ櫻島大根ではないですけど、桜島大根のように大きな大根です。それにあの葉がね、こう芽だけがピクッとこう出ておるとこを頂いた。してその大根ていうのがもう何ちゅうですか、隆々としてまあ異常なまでにこう、大きくこう力強く太っておる大根。あんな大根実際はないでしょう。
もう異常なまでに根は、もう形が悪くなるぐらいに隆々と大きい力がある。に対してその葉っぱというものがね、言うなら芽がちょっとこう三、四本に出ておると言う様な様子を頂いてから、有り難いと思いました。まあ信心が皆さん、例えば出けとるごとあって、もう大変信心も詳しいごとなって。毎日お参りもさせてもらい御用も頂きよっても。それこそ、憚りながら尻尾けなしという信心も沢山あります。
見かけは素晴らしい信心のごたるけども、根は小さいの。心の助かりというものは、ほんの小さいというのです。おかげだけはこういわゆる憚りながら尻尾けなしと言う事。合楽教会なんかも、まあその内に入るかも知れません。見かけはまあ隆々とこう沢山な人が助かって行きよるけれども。その根というものはその芯になる私の信心というものは小さいのかも知れません。
そういうのを憚りながら尻尾けなしと言うのですけれども、それとは反対に葉はもう本当に2~3本の芽が出ておると言う位ですけれども、その根というのはもう異常なまでに、こう発達しとる大きくなっとる。しかも隆々とこうこぶしがある様な感じの大根のお知らせを頂いてからね、思わせて頂いたんですけれども。本当に信者は言うならばこれだけと。まあ昨日西岡先生が十年の記念祭の、案内を出されるのが900件あるそうです。ですから言うならば家数にして合楽の信者が、今900件位しかない訳です。
ですからまあ一家中で、信心をしておる、一家中でお参りをすると、やっぱ何千と言う事になるでしょう。けれどもそれだけのなら、信者を擁しておるけれども、それは葉っぱだけは、こうしこっとるようだけれども、根がないと言う様な場合。ならそれだけ沢山の言うならば信者の中に、本当に真の信心を求めておる者が、どれだけあるかと言う事です。あれは二十年か三十年の、金光教がはじまって、20~30年の時に、まあ四神様が御在世の頃です。
春か秋の御大祭に、それこそ御霊地を埋め尽くすような沢山の信者がお参りをした。四神様大変な事でございますと。まあだ、わずか20年か30年しかならん金光教のこれだけの信者が助かるようになって、有り難い事です、お目出度い事ですと言うて御挨拶を申し上げる時に、四神様が仰せられた。さあなあこれだけの信者の中に真の信心をしておる者がどれだけおろうかと仰ったそうです。言うならば、憚りながら尻尾けないじゃないかと、こういう意味ではないでしょうか。
合楽の場合でもそうです。まあ言うならこれ十年ぐらいでこれだけの人が助かるようになった。助かるようにはなったけれども、ならこれだけ芯から助かる。言うならあの世この世をかけて助かる事の為に、真の信心を頂こう、真の信心のけいこをさせて頂こうという信者が、さあこの中にどれだけおるかと言う事になると、成程これは憚りながら尻尾けなしという事になるのですけれども。
これが一つ御霊の世界になったら、どう言う事になるかと言うのです。私共にはやはりこの肉体がある。言うなら五感。又はそれに一つ加えて六感と言うが。暑い寒さをこの身に感ずる。やはり暑ければ涼しいように、寒ければ暖かくなるように。痛ければ痒ければとさすってももらい、かいてももらうしなけりゃならない。だから先ずはそのそのおかげの事に大概の人が幻惑されるんです。
今お金に不自由をしておる人は、もうとにかく今もう何もいらんお金さえあれば。どうぞだからお金の事ばかり願う訳。病気で信心しておる人はもう何もいらん、助けてさえもらえれば健康でさえなればと言う。だからいかにも熱烈にお参りをしておる、御祈念もしておるようであるけれども、それはどこまでもおかげを追い求めておる姿ですから。例えばそういう信者が億だ集まったところで、たいした力にはならんです。
今合楽理念のまあ言うなら、こう芯に成る様な所を、文章にすると今皆さんに聞いて頂いたような事になるんです。そして最後に申しておりますように。合楽理念はその実行を持って生命とするんだという自覚なんです。だから合楽理念を行ずると言う事そのことが、信心を頂くという事になるのです。勿論信心が出ければ、これにおかげは影の形のように寄りそうて来るでしょう。
それこそ夢にも思わなかったような、おかげにも展開して来るでしょう。ですからここに本当に信心を頂くと言う事に、言うならばそこにただおかげ信心と、真の信心と言うと形に置いてはほとんど変わらない分からない。けれどもそこに真の信心の、言うなら価値観というものを私共は感ずる時にです、本気で信心を頂かなければならない。しかもその本当な信心というのは、あの世にも持って行けれるんだ、この世にも残しておけれるというほどしの力が徳が受けられるのです。
おかげを億頂いておっても、それは言うなら空念仏的なものですから、おかげを持って行く事は出けんのです。だから本気で私どもが信心のけいこをさせてもらわにゃ。ところがそれに反して今度は魂の世界。言うならば魂の世界になりますとです、今言う魂には五感がないです。ですからもう魂だけがいわゆる魂のよりどころとこう言うが。そのよりどころだけを求める訳です。勿論未知の魂も沢山あります。
この世で言うならばこの世には魂を清めに来てるんだという事を知ってない御霊です。言うなら、信心を頂いておっても、ただおかげからおかげに、終始した御霊は同じ事です。信心とは本心を磨くものだ。信心とは日々の改まりが第一なのだと言う様な信心を、例えば頂く。それを何も知らずに、いわゆる皆さんにです合楽に御縁を頂いておる、もうこれは合楽には参っては来ていないだろうけれども。
椛目合楽を通してなら沢山な信者が、まあ新しくお参りをして来たり、又はかつがつ消えて行ったりというのもありましょうけれども。一度合楽に縁を頂いたというほどしの人ならばです、その縁にすがって助かってもらいたいと、これは私切実に願う私の神心です。人間の言うなら助かりだけではない、目に見えないところの世界御霊の世界。御霊達の言うなら嘆いたり苦しんだりしておる、その様相が少しでも分かって来るとです、そういう魂の助かりを願わずにはおられん。
金光大神のお取次ぎを頂いて助けてもらわずにはおられない。ところが助かるという手立ても、手掛りも持たないのが、言うならば無知の魂というか。信心というものを知らなかった、今皆さんの御先祖の中にも沢山ある訳です。俺はもう悪い事はせんから、信心はせんでもといったような意味合いの魂なんかが皆それなんです。今村和子先生が頂いておるのに、雪嶺天命なんです。それこそ雪の中に凍えるような思いをしておる御霊達。それもやはり、天命なのだと。
お前が前世においてです、前世っていわゆるこの世においてです。魂を清める事にも何も精進しなかった。そういう魂は言うならば、それこそ雪の中に凍えておるような感じの御霊達という意味、ハッキリこの字でお示しを頂いておる。雪嶺天命と。例えばならこの世でも悪い事すりゃ監獄に行かなきゃいけません。それもやはり天命なんだと言う事です。だからそういうなら魂を助かる事の為にはです、特別な手立てがいるでしょう。沢山の金を積んでから、または偉い人に頼んでからと。
何とかそこに方法を講じます事によって、なら監獄の中での苦しい思いから、いわば出してもらう事が出来るように。金光大神という言うならば大徳を受けられた、天地の親神様の御神縁を頂かれた方のお取次ぎを頂いて、どうぞお取次ぎを頂いて、お縋りをしておりますから、こっから救い助けて下さい、それが今日の儀式なんです。とはまた反対にです。霊徳神明の儀と頂いた。霊徳神明の儀と。御霊様がお徳を受けて、しかもお徳の上には、もうお徳には限りがないのです。
もうこれだけ徳を受けたからこれで良いちゅう事はない。その徳が愈々輝き愈々栄えて行くところのお徳を受けておる、言うならば安心の御霊、喜びの御霊と言う様な人達の、言うならば、が、また一段と徳が輝くという事の一つの儀式が今日はあるんです。まあ言うならば表彰状のようなものを、頂かれると言う様な事になるのじゃないでしょうか。御霊の世界においてです、いわゆる御霊の助かり。ピンからキリまでありましょう、そのピンからキリまでの魂。
そこで一度その魂が、はあ本当に魂を磨いておくと言う事をしておればです。こういう助かりにもなっとろうにと、例えば感じておる御霊に、なら合楽理念なら合楽理念を説きます。おかげの泉ならおかげの泉を読んで聞かせます。そすと魂がね本当に助かりたいという事になる。これはもう人間の助かりというのは、はあ病気が治してもらいたい、お金のお繰り合わせを頂きたい。
人間関係がスムーズに行きますようにと言う様な願いばかりでしょう。ところが魂の世界は、もう魂そのものがです、助かる事にもうその事一辺に絞って精進をしますから。助かりが早い訳です。ははぁ成程私どもは言うなら今日、夕べ私が御心眼に頂いたように。形に現われておるところは、それこそ三四本の芽がちょっと出とるぐらいですけれども、目に見えておるところは。けれどもその根の助かりというものは、大変なものなんだと。私が祈るところを、言うならばサンパウロとかビリグイ辺りに。
合楽の信心を頂いておる人達がある。それはもちろん黒人もありゃ白人もある、現地人もあるけれども。そういう信心をしておる人達に関わりのあるところの総ての御霊が、今日の御霊のお祭りを受ける訳です。言うならば合楽の場合、もう世界的になって来た訳です、御霊が助かるという事は。けれどもこれはねもう縁のない者はどうにも仕様がないです。まあ私はその意味は知らんけれども、縁なきしじょうはどしがたいというのは、そういう事じゃなかろうかと。
だから合楽に一度でも合楽の信心を頂いたというほどしの人に関わりあるところの魂達がです、御霊達がです。助かりたいというのは、人間の助かりたいというのとは大変違うわけです。人間はほとんどがそれは十年経ったって、二十年経ったってやっぱりおかげに終始しておる信者も沢山あるんです。ところが魂の場合は一度目を覚まさせて、目を開かせるとです、信心の芽を開かせるともう魂だけなのです。魂が救い助けられる事だけの精進をする訳です。言うなら御霊が本当の信心をする訳なんです。
ですから成程合楽で芽の出とるのは、三、四本位のような感じだけれども、その根の隆々たる事、もう異常なまでの助かりその反響をです、私は昨夜感じずにはおられなかった。有り難い事だ尊い事だ。お釈迦様が慈悲を持って沢山な人を救い導かれた。キリスト様が愛の心を持って沢山な人も助けその歓化力の偉大さに本当に敬服いたします。教祖生神金光大神様は。もうただ人が助かる事さえ出来ればという言うならば神心。
そういう神心をです私共が合楽理念のマスター、合楽理念の実行者になる所に、その神心は愈々募って来るのです。そして私が日々お願いをさせて頂いております、関わり合いが出けたが最後、その魂を救い助けて行こうという働きが合楽には起こっておる。それが、異常なまでの様子であるという事を頂いて。有り難い事だなと思います。今日はそういう言うならば儀式がここのお広前で行われる訳です。だから人が助かるという事の為には、先ずは自分自身が助かってなきゃならん。
ただそれはお参りしてなさい、おかげを頂くと。成程おかげの体験を沢山持っておるけれども、そげん言うて言うならば導かれてです。てもはあですからなら私もいっちょお参りしてみろうと言うて、ならまあおかげを頂いたと致しましても、それがそのままでおかげを、おかげを追い求めるだけであったら、これは言うならどう言う事になりますか。それこそ憚りながら尻尾けなしと言う事になって、愈々私どもが魂の世界に入って行く時に、何ひとつ持っては行かれない。
いやむしろ神様に御無理を言い続けた、借金ども持って行くような事になる、なりかねない訳です。そこんところは自分の心の本当切り替え一つなんです。ここには信心のけいこに来る所信心のけいこです。おかげを頂きに来る所じゃない。信心のけいこけれども誰でもやはり皆はおかげを受ける、事の為に参って来ますけれども。その言うならばおかげと信心の価値観というものが、段々皆さん分かって来るようになるとです、本気でいわば信心を求めるようにならなければならんと言う事でございます。
信心が一段一段進む事によってです、私どもは誰もそれを証明してくれる者がおりません。ただ、自分の心に感ずるだけ。有り難いと思う心がどれほど募って行っておるかという事ですから。だから自分のつは有り難いなあ、有り難いなあと言いよるばってん、どのぐらい有り難いかと言う事を実証する者は、それに伴うて来る所のおかげを見るより他に仕様がありません。ですからおかげば頂きござるけん、ほうあっちの信心な素晴らしかという訳には行かんのです。だから分からんて。
自分自身の有り難いと思うのが、自分でなからなければ分からない。その有り難いというその心に伴うて来るおかげですから、自分だけしか分からない。自分は有り難くも何もないのに、おかげだけはこんなに頂いておるというのならです。結局言うならば真の信心じゃないと言う事にもなる訳です。もう一遍読んで見ましょうね。合楽理念の実行的原理は、天を恐れ天を楽しむ心を行いにより、表現される。信心というものは有り難い有り難いだけが分かっただけじゃつまらん。
本当にこの神様は恐い方だなという事もわかって来なければ、信心は進みません。合楽理念の実効的原理は、我情我欲の滅却により実現しられる。これは大変難しいようですけれども、その我情我欲を取って行かなければ、こんなに馬鹿らしいと言う事を、もう事細かに説いてありますね、合楽理念は。言うならば親先生任せと言った様なけいこは、もう愈々自分というものを空しゅうして行きよる姿なんです。
だから合楽でならばそういう難しい信心も、いわば楽しゅう有り難く出けると言う事。合楽理念の実効的原理は、人間氏子のいわゆる神任せの絶対精神。なお行動により実現されると言う事です。私どもが神様任せの絶対精神なんです。それが行動になって現われて来ると言う事です。これは合楽理念の実効的原理なんです。合楽理念は自ら天地の心を体得し、自ら神を目指し人間幸福の条件の全てを受けようとする理念なり。ここで言われる天地日月の心になる事肝要だと言うのです。
言うならば御取次ぎを頂いて、それこそ成り行きに任せる、成り行きを尊ぶ、全ての事に御の字をつけて行くといったような生き方がこれに当たるのです。一歩一歩生神へ向かって進んで行くのです。合楽理念は時代により変わり、所によって変わるものではない。言うならば、合楽であろうが、南米ブラジルであろうがです。末永先生が言っておりますように、もう海外布教は合楽理念を持ってする他はないと言っておるほどしに、合楽理念というものは、もう場所を選ばない。
世界の隅々にまで持って行けれる、そういう普遍性に富んだものだという事なんです。そして、そんなら、この理念というのはです、時代が経つに従って、変えて行かなければならないというものではない。何時の時代までも、言うならば真実の言うならば真理なのだから。何時の時代にも変わる事はないと言うのです。究極は世界総氏子の心開発にありという事になるです。皆さんの周囲の、自分の心が開発される。
そして皆さんの周囲の人達の心が開発される。言うならば、言葉も通じない黒人の人やら、白人の人やらが、どんどん助かっておる事実がそうです。合楽理念はその実行を持って生命とするのだといったような事をです、皆さんが思い込まれる。それを確信を持って、そういう日々の信心生活の中に合楽理念が折り込まれて行くという生き方を愈々身につけて行くという事が、そのまま、取りも直さず真の信心をさせて頂くと言う事になるのです。そして嫌が上に有り難うなって行く。その有り難いという心におかげが寄りそう、伴うて来るというおかげを頂きたいもんですね。
どうぞ。